中の人
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今日は中の人について考えてみます。
人は人格という仮面…ペルソナをつけています。
そして仮面というからにはつけている人がいる…
ただそれはいまここにいる自分、というのではなくてペルソナの生み出される場所…
自分の中の宇宙とでもいうか…
そのような場所にいるだれか。
自分でない自分。
仮面をつけていない、素の自分でもない…自分。
中の中。
中の人。
人格・思考とは脳の働きによるものなのでしょうか?
だとしたらどのような事が脳の中で起こっているのでしょうか?
無論、研究等はいろいろされているでしょう。
ただそれらではないなにか…別の方向から攻められないものでしょうか?
答えは出るかもしれないし出ないかもしれません。
ただ考える価値はあります。
---ここからとくがわ---
中の人などい…ないのだろうか。
人間はふつう、自分自身は自分が完全に掌握している、と思い込んでいる。
ところが実際にはしばしば掌握しきれない場合が出てくる。
大量の酒を飲んだ場合。病気になった場合。精神に作用する薬を飲んだ場合。
これらは極端な例にしても、本当に掌握し切れてるかというと疑問ではある。
かつて心理学者フロイドは自我は複数の階層に分かれていると考えた。
「自我」「超自我」「エス」といった階層に分かれるのではないかと。
脳の構造からいうと大脳新皮質にあるのが一般的にいわれる「人格」ではないか
ということであるが、中脳や小脳、脳髄といった生命維持に関係する脳の一部は
そこまで人格に作用しないと考えられている。
中の人はどこにいるのだろうか。
大脳新皮質の人格なのか?いや、それはペルソナではないか?
中脳や小脳に人格はあるのか?多分無いだろう。
それらを総合してみる、それがあたかも中に人がいるかのように見える。
中の人は外から見るから中にいるように見える。
…脳をばらしてみる。中に人などいない。
外から誰かが着ぐるみを見る場合、「中の人はいる」、そう思うわけだ。
某千葉県の○ィ○○ー○○○の○○○ー○○○を見る場合ですら、彼らが
どんなに気をつけようとも「中の人はいる!」と思うわけだ。
が、着ぐるみの中から人が出てきた。
その着ぐるみの中の人の中に人がいるとは思わない、はずだ。
これを人間そのものにたとえてみる。
人間本体を着ぐるみとすると、脳と生命維持器官が人格の中枢である。
これを分解してしまえば人格は消滅する。
ある限界を突破して分解すると人格も消滅する。
どうやらこのあたりに「中の人の存在」の限界があるといえるのではないか?
デカルトは「どれだけ考えても考えてる俺がいるのを否定することは無理」と考えた。
ではその俺とはなんなのか。結局のところ「俺」ってのも一定数の細胞によって
構成された機械に過ぎないのか。
なんかよくわからないけど、とにかく俺って存在がいると思ってしまうんだよ。
で、俺って存在に良く似た存在がいる気がするんだよ。
ある意味気のせいなんだよすべて。気のせいだけど、そうなってるってことに
しないと多分動かないんだよ、この人間って存在は。
人格の無い人間は、多分生きていけないんだろう。
だから人間の中には「中の人などいない!」けど、仮のペルソナを
持つことで、人間は人間足りうる、といえるのではないだろうか。